「人間にしかできない仕事」は残るのか。AIがもたらした高揚と哲学的問い

本日の語り手

代表取締役CEO 藤原 誠一郎 
金融商品のマーケティング、ベンチャーキャピタル設立を経て、1999年イーライフを設立。
趣味はマリンスポーツ・スノースポーツ。愛犬家。

こんにちは、イーライフ代表取締役CEOの藤原です。
今回はChatGPTに代表されるAIについて、僕なりの考えを述べたいと思います。ここ数ヶ月の世の中の動きを見ていると、やはりこの話題を避けて通ることはできません。

僕はこの分野の専門家ではないので、いますぐに役立つ知見をシェアできるわけではありませんが、長年インターネットビジネスに携わってきた身として、感じる部分は少なからずあります。現時点で感じていること、考えていることを記しておきたいと思います。

インターネット黎明期に似た肌感覚

僕が最初にインターネットに触れたのは、確か1997年のことだったと思います。いまのこの状況は、その当時とすごく似ているように感じるのです。

当時のインターネットは電話回線を利用したものでした。まだADSLなどが登場する前で、通信速度はいまでは考えられないくらいに遅かった。
Webページを表示しようとすると、画像のところには大体「×」がつきました。カーソルを合わせるとディスクリプションが読めるので、どうしても見たい時にだけクリックする。すると、5分か10分経ってようやく画像が表示される。そういう時代でした。

インターネットはもともと政府機関や研究機関によって運営されていたもので、私的・商用利用を禁止されていました。日本では1993年に商用利用が解禁されますが、一般ユーザーが当たり前にインターネットを使うようになるのは、さらにずっと後のことです。インターネットを使ってビジネスをするなど、当時はまだ考えられませんでした。

僕をインターネットの世界にいざなったのは、のちに「トロイの部屋のコーヒーポット」と呼ばれるWebページでした。ケンブリッジ大学内の、とある研究室に置かれたコーヒーマシンをWebカメラで映し出したもの。どこの誰とも知らない人がコーヒーを注ぎに来る様子をリアルタイムで見られることに「これはすごいぞ!」と驚き、興奮しました。
僕はすぐに自分でもWebページを作ってみることにしました。飼っていた犬のイラストを貼り付け、鳴き声のファイルを載せただけの簡素なもの。いまとは違って牧歌的な時代でしたから、メールアドレスも公開して「感想をどうぞ」と記しておきました。すると「君のページを見たよ!」というメールが世界中から届きました。

こうした実体験を通じて、僕は「個人がメディアを作れる時代が来たのだ」と直感しました。いま振り返れば、その直感は正しかったことになります。あれから20数年が経ち、個人がメディアを持つなど、当たり前の話になりました。

AIが気軽に使えるようになったここ数ヶ月の感じは、あの当時の感覚とすごく似ています。インターネットはこの20年で私たちの生活や仕事を大きく変えましたが、それと同じくらい大きな変化が、AIによってもたらされる予感がします。

いえ、おそらくその進化は指数関数的に進むはずですから、変化はより圧倒的で劇的なものになるでしょう。ChatGPTのバージョン3から4へのアップグレードでさえ、あっという間でした。2年、3年後の変化だって計り知れないというのが、個人的な肌感覚です。

ChatGPT-4のアドバイスをもとに画像生成AIによって作成された画像

人間にしかできない仕事は本当に残るのか

さて、そうだとしたら、僕たちは一体どう振る舞えばいいのでしょうか。

多くの人がまず口にするのは「単純作業はすべてAIに任せよう」という話です。それはまあそうでしょう。弊社の業務にも単純作業はたくさんありますが、それらはなるべく早く、すべてAIに置き換えたいと思っています。

問題になるのはその先です。ほとんどの人は「人間にできて、AIにはできない仕事は何か。それこそが人間のやっていくべきことではないか」と続けます。でも、それには僕は懐疑的なんです。「人間にできて、AIにできない仕事。そんなものが本当にあるだろうか」と思うわけです。

たとえば、人間にしかできないこととしてよく挙げられるのが、クリエイティブな仕事です。けれども現時点でもすでに、AIが作曲したり小説を書いたりする例が普通に出てきていますよね。
いまがまだ「インターネット黎明期の、画像表示に5分も10分もかかっていた時代」にあたるとすれば? 来年にはもう「作曲なんて人がやるべき仕事ではない」と言われているかもしれません。

AIは過去のデータを元にしているのであって、ゼロから何かを生み出しているわけではありません。それを根拠に「AIのクリエイティビティには限界がある」と言う人がいます。
しかし、よくよく考えてみれば、同じことは人間にも当てはまります。作家にしろ芸術家にしろ、ゼロから作品を生み出しているわけではないでしょう。

彼らはそれまでの人生で接してきたさまざまなものをインプットとして、作品というアウトプットを生み出している。これが創作活動に対する僕の理解です。そうだとすれば、データ量も処理能力も大きいAIが、人間以上にクリエイティブなものを生み出してもおかしくはないですよね。

「AIが感情を持つことはない」「AIは人間の感情を理解できない」というのもよく言われるところです。僕はこの意見についても、賛同することができません。

連想するのは、犬の感情についての議論です。「犬には感情がない」と言う人がいます。犬は飼い主が帰宅すると尻尾を振って喜びますが「あれは餌をもらえる、何かしてもらえることに対する条件反射であって、感情ではない」というのが彼らの主張です。
仮にそうだとして、ここでも僕は「それと人間の感情とはどう違うのか」と問いたくなります。「人間が泣いたり笑ったりするのだって、外部刺激への条件反射ではないか」と思うわけです(ちなみに、私自身も以前は「犬に感情なんてない」派でした。けれども、実際に犬を飼うようになって、それはまったくの間違いだと確信することになりました)。

このように、犬やAIにできないことは何かと問うことは、「人間のクリエイティビティとは何か」「感情とは何か」と問い直すことでもあります。そこに明確な答えを出せない限り、人間とそれ以外を区別することはできないはず。AIの可能性を論理的に否定することはできないのではないかと思うのです。

AIとの会話は(現状)外国語に似ている

いずれAIにできないことはなくなる前提に立った方がいい、というのが僕の考え。ですが目先の話で言えば、いまは徹底的にAIを使いこなすことを考えるべきだと思います。「AIにできないこと」を考える時間があったら、まずは「AIにできること」を積極的に取り入れて活用すべきでしょう。

では、どうすればAIを使いこなすことができるのか。AIを使いこなすのに必要な能力とは、どのようなものでしょうか。

これまでは、コンピュータに指示を出していたのはプログラミング言語を操るプログラマーやエンジニアでした。AIは自然言語を使えるので、指示を出すのにそういう専門家である必要はなくなります。
けれども、ChatGPTを見ていても、AIが理解しやすい言語というのはやはりある。AI が理解しやすい言語でタスクを与える「プロンプトエンジニア」と呼ばれる新しい職種も生まれているように、人間の理解しやすい言語とまったく同じではないようです。

これは僕の肌感覚ですが、AIにタスクを与えるのに求められる能力は、つたない外国語で外国人とコミュニケーションする能力に近いのではないでしょうか。

外国語を新しく学び始めた段階では、当然使える語彙が少ないですよね。自分の意思を相手に伝えるためには、母国語で考えている複雑な思考を単純な言葉に置き換える必要が生じます。複雑なことを単純な言葉で表現するというのは、それはそれでクリエイティブな営みですが、僕の感覚だと、これはテクニックというよりセンスの世界です。

外国語を話す人にもふた通りいます。一つは、ボキャブラリーやグラマーを頭にしっかり入れて、機械的に文章を構築する人。もう一つは、外国人の目の前に行ったら、身振り手振りも含めてどうにか意思疎通を行えてしまう人です。
AIとのやりとりに向いているのは、おそらく後者のタイプだと思います。その場のコンテクスト(文脈)を感じ取る能力のようなものが重要になる気がするからです。

もちろん、こうした能力が未来永劫必要になるかどうかはわかりません。AIが人間とまったく同じ言語を十分に理解する日だって、おそらくやってくるでしょう。ただ、少なくとも現時点では、そういう能力が求められているように思います。
実際、弊社にもコンピュータ音痴の人がいますが、そういう人の方がむしろAIとのやりとりが上手だったりします。これまでとは違う人が活躍するようになるかもしれません。

問われているのは人間存在そのもの

「いずれAIにできないことはなくなる」と言うと、中にはネガティブに受け止める人もいるでしょう。ですが個人的には、この状況を最高に楽しいことと受け止めています。言ってみれば、新しい知的有機体が生まれようとしているわけですからね。

いま感じているワクワクは、初めて犬を飼った時のそれと似ているかもしれません。「犬に感情なんてない」と思っていたのに、実際に飼ってみたら、ものすごく感情豊かな生き物なのだと気づくことができた。そんなワクワクをAIに対しても感じています。

ヨーロッパではすでに規制しようという動きも出てきているように、世の中にはAIの存在を危惧する声もあります。著作権の問題なども取り沙汰されているようです。そういう問題は確かにあるでしょう。けれども、ここでもやはり「そもそも著作権とは」という問いと向き合わざるを得ません。

繰り返しになりますが、あらゆる創作物はマッシュアップであり、エディティングの世界です。音楽なんてあきらかにそうですし、小説もおそらく同じでしょう。コピーライトを盾に取って「AIを禁止しろ」と言う人に対しては「じゃあ人間がやっていることは著作権違反ではないのか」と問いたくなります。
状況は日々すごい速さで変わっていきますから、結論らしい結論を出すことはできません。新しい技術はどんどん試して、自分たちのビジネスに取り入れていくしかない。

同時に、AIについて考えれば考えるほど、「自分たちはなんなのか」と問いかけられることにもなります。これからの経営でありビジネスは、これまで以上に、終わりのない哲学的な問いと向き合い続ける必要があるのかもしれません。

 

 

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